料理愛好家として有名な平野レミさん。手軽に美味しくできる料理やダイナミックな料理が話題で、自由奔放で屈託のない話方や明るい笑顔が大人気。元々はシャンソン歌手。
そんな平野レミさん、実は家系がとても凄くて超セレブなんです。
この記事では、世界的に有名な祖父から有名人の息子さんとお嫁さんまで、平野レミさんの家系をご紹介します。
平野レミ実は超セレブな家族構成
底抜けの明るさと、弾丸トークの面白さについ目がいってしまい平野レミさんがクォーターだというのをご存知ではない方もいらっしゃるのではないでしょうか。
平野レミさんは東京都台東区で生まれ千葉県の松戸市で育ちました。
実は、平野レミさんのお祖父さんがアメリカ人、お父さんがアメリカ人と日本人のハーフ、平野レミさんはクォーターになります。
祖父 | ヘンリイ・パイク・ブイ | 本美術家で法律家、そしてサンフランシスコ日米協会初代会長 |
祖母 | 平野駒 | 琴の教師 |
父親 | 平野威馬雄 | フランス文学者 |
母親 | 平野清子 | |
夫 | 和田誠 | イラストレーター、エッセイスト、映画監督 |
本人 | 平野レミ | 料理愛好家 |
長男 | 和田唱 | 『TRICERATOPS(トライセラトップス)』のボーカルとギター担当 |
長男の嫁 | 上野樹 | 女優 |
次男 | 和田率 | キッチンウェアブランド『remy』を立ち上げ、料理器具の企画デザインやアプリの開発 |
次男の嫁 | 和田明日香 | モデルで食育インストラクター |
平野家は美術・文学・芸術・芸能など各分野で活躍されている著名人ぞろい。
平野家の家系について詳しく見ていきましょう。
平野レミの祖父は「ヘンリイ・パイク・ブイ」(サンフランシスコ日米協会初代会長も勤めた有名人)
平野レミさんはの祖父はヘンリイ・パイク・ブイさんは、米国の日本美術家で法律家、そしてサンフランシスコ日米協会初代会長も務めた人物。カリフォルニア大学を卒業後、実業界に入り、若くして億万長者になった方です。
祖先はスコットランド貴族の家系で、一族にはナポレオンの最初の皇后ジョゼフィーヌがいたいう平野レミさんの父親が祖父から聞いたという話だが真偽は不明。アメリカの資料では18世紀にスコットランドからアメリカのメリーランドに移民したブイ一族の子孫という情報があるらしい。
先妻の死後、日本に来日してから日本文化に親しむようになり、美術愛好家で日本の美術品を収集するかたわら、浮世絵を研究し、俳句や連歌、能などといった、多彩な日本文化に熱中していたそうで、京都に住んでいたこともあるそうです。日本では常に和服を着用し、日本画家の西川桃嶺や、久保田米僊などから指導を受け、滋賀県出身の能書家である巖谷 一六(いわや いちろく)からは「武威(ぶい)」という雅号を受けています。ヘンリイ・パイク・ブイさんが描いた日本がも残っている。
51歳だった1899年に明治天皇の側近だった24歳年下の平野駒さんと東京で結婚。その時の仲人は大正天皇の生母である柳原愛子さんがされたそうです。
ヘンリイ・パイク・ブイさんと平野駒さんの間には2人のお子さんが生まれました。
1900年に長男の平野威馬雄が誕生(平野レミさんの父)
1908年には次男の平野武雄が誕生
各地の大学で日本美術に関する講演会を開き、1905年には『サンフラシスコ日米協会』を創設。初代会長として、尽力した方です。当時排日運動が激しかったアメリカにおいて、日米親善・日系移民の権利擁護に貢献し、明治天皇からは親日の功によって国家又は公共に対し功労のある者に贈られる「勲二等旭日重光章」が授与されました。ヘンリイ・パイク・ブイさんが暮らしていたサンフランシスコの地域は、アメリカのなかでも特に当時排日運動が激しいエリアであったからか、アメリカで迫害にあった日系移民を、カリフォルニア州サンマテオにある自邸に招いては彼らを励まし、職を与えるなどをしていたとのこと。
日本美術に魅せられてその素晴らしさを広める活動もされていました。1972年には、息子によって翻訳された『日本画の描法』という著書も出版。日本美術に対する膨大な知識と、この上ない愛を兼ね備えた人物です。
ひずきなのつぶやき:平野レミさんが誕生する前にお祖父様はお亡くなりになったそうですが、この経歴から日本を愛し、日本人と日本の文化を受け入れた方で祖国アメリカでも日本人のために尽力された恩人ですね。そしてその方の存在により平野レミさんが後にこの世に生を受け、良い意味で影響を受けて育ったんだと思います。超セレブなのは間違いありません。
(出典:Wikipedia)
平野レミの父は「平野威馬雄(ひらのいまお)」詩人・フランス文学者
(画像左側:父の平野威馬雄さん、右側:母の清子さん)
平野レミさんの父親は、平野威馬雄さんは詩人でありフランス文学者。同人誌『青宋』を主宰した詩人として知られています。中学生時代に国語教師から文才を認められ、『平家物語』『源平盛衰記』など日本の古典からフランス語の原書までを読みこなすほど。
『文章倶楽部』や『中央文学』などの文芸雑誌に詩・短文を投稿し、様々な賞を受賞し、「日本近代詩の父」として有名な詩人・萩原朔太郎から作品を称賛されたこともあるようです。
自身が幼少期よりハーフであることで差別された経験を持つことから、戦後には、計7人の混血児たちを自宅に引き取って面倒を見るなど、混血児の救済に奔走したとされています。アメリカ人と日本人のハーフとして差別されたことを告白した自伝的作品「レミは生きている」は第6回サンケイ児童出版文化賞を受賞しました。
平野威馬雄さんは2度目の妻(平野清子さん)との間に2人の子をもうけており、長男は画家の平野琳人(よしと)さん、長女が平野レミさんです。
平野レミさんによると父親の威馬雄さんはとにかく明るくて楽しいお父さんだったそうで、自宅にはフランス人の訪問者がたくさん訪れ、日本では売られていないフランス人が持ってくるレコードを聴いて真似をして歌うことが大好きだったレミさんは、後にシャンソン歌手になります。
1986年11月11日に、86歳でこの世を去りますが、威馬雄さんの墓前では毎年、生まれた日である5月5日に墓前祭として「青宋忌」が行われるのだそう。
(出典:Wikipedia)
平野レミの夫は「和田誠」イラストレーター・エッセイスト・映画監督
平野レミさんの夫は和田誠さん。
グラフィックデザイナー、イラストレーター、エッセイストや映画監督としても有名な方です。和田誠さんの父親・和田精さんはテレビ・ラジオディレクター、毎日放送取締役。
和田誠さんは多摩美術大学を卒業後、デザイナーとして株式会社ライトパブリシティに入社。のちにフリーとなります。
たばこ「ハイライト」のパッケージや週刊文春の表紙は担当された2000号分、企業広告のデザインなどを担当されました。映画監督としても初監督作品の「麻雀放浪記」は報知映画賞新人賞、「快盗ルビイ」はブルーリボン賞など、数々の賞を受賞されています。その他、200冊以上の書籍を出版するなどマルチな活躍をされた和田誠さんですが、2019年に肺炎のため83歳で亡くなりました。
平野レミさんにとっては嫌なところが1つもない完璧な夫だったそうです。
平野レミさんと和田誠さんの馴れ初めについては、こちらの記事で紹介しています
平野レミの長男「和田唱」はミュージシャン。嫁は女優の「上野樹里」
平野レミさんの長男は和田唱(わだ しょう)さん。ロックバンド「TRICERATOPS」(トライセラトップス)のボーカル・ギターを担当、作詞作曲もされています。
長男の嫁は女優の上野樹里さん。憑依型の演技派女優で作品ごとに別人のように印象が変わるのが本当にすごくて、内面から醸し出される演技が印象的です。
和田唱さんは1975年生まれ、上野樹里さんは1986年生まれ。2人は10歳以上の歳の差夫婦ですがそれを感じさせないほっこりした印象があります。
姑:平野レミさんと嫁:上野樹里さんの関係についてはこちらの記事で紹介しています
平野レミの次男「和田率」、嫁は「和田明日香」は料理分野でマルチな活躍
平野レミさんの次男は和田率(わだ りつ)さん。
慶應義塾大学を卒業後、大手広告代理店でCMプランナーをされていました。母であるレミさんから「おいしい料理を届けるホームページをつくってよ」と言われ、キッチン用品ブランド「remy」のサイトを立ち上げ。
キッチンウェアの企画デザインや食育アプリの開発などをされています。母親の平野レミさんから学んだ料理を生かして和田率さんは娘のために作っていたお弁当をインスタに投稿していたものを「お弁父」というタイトルで書籍化が話題に。
次男の嫁は料理研究家の和田明日香さん。食育インストラクターやモデルとして活躍されています。
結婚した当初はレタスとキャベツの違いすら分からなかった和田明日香さんですが、料理を猛勉強し食育インストラクターの資格を取得されました。今ではレミさんも太鼓判を押すほどの腕前に成長。
姑:平野レミさんと嫁:和田明日香さんの関係についてはこちらの記事で紹介しています
まとめ
最後まで読んで頂きありがとうございます。
今回は平野レミさんの家系についてお伝えしました。歴史上に名を残した祖父から次男のお嫁さんまで、各分野で活躍されている平野家の方々。これからもそれぞれのご活躍が期待されるご家族です。
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