女優の宮沢りえさんは、1984年11歳の頃にモデルデビューし、程なくして雑誌 『週刊セブンティーン』(当時)の表紙モデルへ。1987年にテレビCM『三井のリハウス』の初代リハウスガール“白鳥麗子”役を務めて注目を集め、トップアイドルの1人となります。その後現在に至るまで、芸能界の第一線で活躍し続けています。
その宮沢りえさんの母親は愛称「りえママ」と呼ばれていた宮沢光子さん。宮沢りえさんのプロデュースとマネジメントを担当し、一卵性親子と言われた程、宮沢りえさんの隣にはいつも一緒にいる様子がメディアで頻繁に報じられていました。 この記事では、りえママこと宮沢光子さんの生い立ちから、ステージママ時代の毒親エピソード、そして2014年9月23日に65歳で壮絶な最期に至るまでの生涯の一部を紹介します。
宮沢りえの母親 宮沢光子さん生い立ち
宮沢りえさんの母親の生い立ちについて
名前:宮沢光子(みつこ)
愛称:りえママ
生年月日:不明ですが、1949年頃の生まれで、2014年9月23日に65歳で死去
出身地:東京都 身長:166cm 日本人女性の平均身長が約158cmなのでその年齢にしてはかなり高身長
兄弟:5人兄弟の末っ子
父親:名前が喜一さんで、絵描きを目指し、戦後、商業デザイナーに転じて成功
母親:家を出てしまい、途中から父子家庭で育つ
宮沢光子さんは、裕福な家庭に育ち幼い頃はバレエと水泳を習いっていたそうです。しかし、父親は、「女は家庭に入るもの」という考えを持った人だったので、本格的に極めることができませんでした。
宮沢光子さんはどちらかというと家庭に収まる女性ではなく、タバコを吸うことと飲み歩くことが大好きでした。ときに酒に飲まれてしまうこともあったそう。 そんな彼女は、保守的な父親と性格が合わず高校を卒業後、実家から出ます。美人と呼ばれる容姿を活かし六本木でホステスして生計を立てるようになります。
宮沢りえの母親 宮沢光子 容姿が美しいモデル・ホステス時代
宮沢光子さんは、身長166cmと長身で、容姿に恵まれ、モデルやホステスをしながら六本木で様々な経験をしながら自分の人生を模索する日々を過ごしていたそうです。
昔、雑誌「セブンティーン」の特集で見ました。 きれいな方でしたよ。 服用していたお薬が原因で太ってしまった、と本人のコメントが載っていました。 (出典:Yahoo知恵袋)
若い頃の宮沢光子さんのことを知る人は、「宮沢りえさんによく似たほっそりとした美人だった」、「宮沢りえさんよりも綺麗だった」といいます。 若い頃の宮沢光子さんとお付き合いのあった加賀まりこさんは「宮沢りえちゃん以上の美貌でバレエをしていたからスタイルも良くてね、周囲の男性全てに憧れられる、人形のようにものすごく美しい人だった」と語っています。
加賀まりこさんも美人ですのでこの発言は信憑性が高いです。 宮沢りえさんはハーフなので華やかな感じですが、宮沢光子さんは日本美人という感じだったそうです。 人間は太ると目元や鼻が埋まってのっぺりとした顔になりがちですが、宮沢光子さんは目鼻立ちがくっきりしています。特に目の大きさが目立つので、若い頃痩せていた頃は美人だったのではと想像がつきます。
宮沢りえの母親 宮沢光子 毒親と言われる由縁は?
複雑な家族構成の中で育った宮沢りえさんの生い立ちは、自由奔放な母に影響され壮絶なものでしたが、母親の芯のある考え方や周りの大人の優しさから、まっすぐに育ったようです。
宮沢りえの父親はオランダ人
宮沢りえさんの母親の宮沢光子さんは若い頃にお店のお客さんだったオランダ人船員と出会い恋に落ちます。その方が宮沢りえさんの父親です。そのままオランダ人船員と結婚しオランダで生活し始めます。しかし、オランダの田舎生活を退屈に感じた光子さんは、数ヶ月で日本に帰国。
帰国後、1973年4月6日、光子さんは宮沢りえさんを出産します。オランダ人の父親は、光子さんを追い日本にやってきますが文化の違いから二人は離婚します。
そして、生まれたばかりの宮沢りえさんを、生活費を稼ぐために親戚に預けます。その親戚とは、宮沢光子さんの姉(宮沢りえさんにとって叔母)とその夫と息子です。この4人で暮らしていた頃が、宮沢りえさんは一番楽しかったと後に語っています。 母親とは別居になりますが、宮沢りえさんは叔母一家の分け隔てのない温かい愛情を受けて素直に育ちます。
宮沢りえの母親 宮沢光子はピアニストと再婚し出産後に離婚
1976年1月、宮沢光子さんは、ピアニストの小沢典仁さんと再婚し、宮沢りえさんと3人で暮らしますが、3人の生活は上手くいかなかったそうです。宮沢りえさんは継父に懐くことはなかったようです。宮沢光子さんと継父である小沢典仁さんはともに夜に仕事をしていました。夜間、一人ぼっちで家に残された宮沢りえさんを心配した近所の人が、おにぎりを差し入れたりしていたようです。他人が宮沢りえさんの面倒みたと知ると、宮沢光子さんは激しく怒っていたそうです。
継父の小沢典仁さんのインタビューによると、母親の宮沢光子さんは、自分以外の人から愛を宮沢りえさんが受け取り、その相手に好意を持つようになることをよく思わず、自分の元から離れていくことを極度に嫌がったのではないかと近所の方からの親切も嫌っていたようです。
翌年の1977年、宮沢光子さんは小沢典仁さんとの間に男児を出産し、宮沢りえさんも弟の誕生を喜んでいたといいます。しかし、宮沢光子さんは子どもとは一切会わないと約束をし、翌年に離婚。また宮沢りえさんと2人の生活がはじまります。 離婚の原因は、宮沢光子さんが生まれたばかりの長男を小沢典仁さんの実家に預け、小沢典仁さんの男友達と2人で遊びに行ったということにあるといいます。
宮沢りえの母親 宮沢光子 子宮ガン後に容姿に変化が現れる
宮沢光子さんは離婚後、子宮がんを患います。手術は無事成功しますが、服用していた薬とホルモンバランスの影響で容姿が著しく変化したといいます。銀座のホステスとして活躍していた光子さんですが、病気後は保険の外交員などをして練馬でりえさんと暮らしていたといいます。
後にかなり話題となった宮沢りえさんが18歳の時のヌード写真集『Santa Fe』を出版時、「若い時の美しさは特別なもの。20歳を過ぎれば、りえも太るかもしれない。私のように」という宮沢光子さんの言葉は、ご自身の経験からのようです。
宮沢りえの母親 宮沢光子ステージママ(りえママ)のはじまり
宮沢りえさんは、母親の宮沢光子さんと同居するのは小学4年からで、保険の外交員や居酒屋勤めをする母親とようやくアパート暮らしが始まりました。自宅の近くには芸能事務所関連の人が住んでおり、デビューを持ちかけられることも頻繁にあったといいますが、宮沢りえさん本人の意思を尊重し、宮沢光子さんは誘いを断り続けていたそうです。
しかし、宮沢りえさんの美しさに着目した宮沢光子さんは知人も勧めもあり、宮沢りえさんをモデルにしようと自らプロデュースするようになります。その強引なやり方で宮沢光子さんが「毒親」ではないかと言う声も早くから聞かれました。 銀座のクラブのホステスをしていた関係から、六本木の高級寿司屋の店主と仲がよく、この店に宮沢りえさんをよく連れていました。
そこに通う芸能界の幹部の目にとまり宮沢りえさんはスカウトされます。宮沢りえさんは、某事務所に所属し、芸能界デビュー。その後、瞬く間に世の中から人気を得ました。宮沢りえさんの努力や恵まれた容姿もあると思いますが、宮沢光子さんの努力もあったからでしょう。
宮沢りえさんは小5でモデルを始め、表紙モデルへ。1987年14歳で三井のリハウスのCMで注目を集めてトップアイドルとなります。宮沢りえさんは当初、大手事務所に所属しそうですが、すぐに母が個人事務所を設立し、宮沢光子さんの姉さつ子さんとともに経営します。スカウトされデビュー時、所属した事務所は”芸能界のドン”と呼ばれた人物の息がかかった「E」というプロダクションだったが、ブレークするや、宮沢光子さんの判断で即独立してしまいます。
芸能関係者からは、「普通なら、他の芸能プロに潰されますよ。ところが、りえママは男勝り。彼女自身がマネジャーになって、りえの売出しを始めたんです。りえママの勢いに押されて、さすがに芸能界の実力者たちも沈黙せざるを得なかったですよ」という声も出ていたそうです。 弱小事務所であることでマスコミからは見下された対応をされたと言いますが、光子さんは怯むことなく立ち向かっていったということです。
その後、宮沢りえさんが16歳でふんどしカレンダーを発売、18歳の時には『Santa Fe』でヌード写真集を発売するなどいつも大きな話題の中心となっていた宮沢りえさん。
18歳の時ヘアヌード写真集を出版した際、宮沢光子さんの豪腕ぶりに当時のマスコミからは非難や様々な憶測が飛び交いました。宮沢りえさんを大手事務所に所属させなかったのは、何をされるのか危険であり、守ろうとしたためと、宮沢りえさんはインタビューで答えています。 加熱報道についても、「嘘ばっかり」であるとし、反論したいという当時の宮沢りえさんに対して、宮沢光子さんは、「絶対に反論はしないほうがいい。いつか分かるときが来るから。それに対して抵抗するのは、いい仕事をすることだと思う」と諭したといいます。
宮沢りえの枕営業は毒母 宮沢光子の指示
話題作りに長けた宮沢光子さんは、仕事だけでなく、恋愛にまで口を出してきた。 宮沢りえさんは、母親から枕営業を強要されていたのではないかという憶測は以前からあるようです。
芸能リポーターの井上公造さんは、「光子さんは、りえさんが一流の男性と付き合うことに固執したといいます。宮沢光子さんは宮沢りえさんの異性関係までコントロールしようとしました。光子さんには、一流の男性と付き合ってこそ、一流の女性になれる、という信念のようなものがあった」と語っていました。
貴乃花さん(当時:貴花田)
19歳の宮沢りえさんが貴乃花さん(当時:貴花田)と婚約を発表したのも「りえママ戦略の一環」と言われているが、少し誤算があったようです。宮沢光子さんとしては、当時有名で力士として有望だった貴乃花さん(当時:貴花田)に恋愛関係をプロデュースしようとしたところ、結婚会見を開くまでに当人同士が本気になってしまった。力士と結婚すると女優を引退して女将さんになることを望む貴乃花側と芸能界を引退させたくない宮沢光子さんは、結果破談に持ち込みます。
ビートたけし
婚約破棄後のスキャンダルにも、りえママの存在がつきまといます。その最たる例がビートたけしさんとの不倫疑惑も宮沢光子さんがプロデュースしたと言われています。 当時、宮沢りえさんはや映画でビートたけしさんと共演し、1992年に発表したシングル「心から好き」の作詞をたけしが務めたほど。年齢も離れた、意外な組み合わせだっただけに、これもりえママが仕掛けた、たんなる話題性を狙った作戦のように世間は見ていました。
しかし、宮沢光子さんは作戦ではなく本気。当時、驚くべき真相を、1993年に光子さんが雑誌「DENIM」(小学館、廃刊)に連載していたエッセイで語っています。その内容は「宮沢りえさんはビートたけしと交際しており、2人は肉体関係を結んでいない」ということまで言っています。そして、「何もないというのは不自然」最後には「2人でさっさとすませてしまえばいいのにと思っている」というコメントまで。 不倫を公認し、20歳になったばかりの実の娘にさっさとセックスすべきと諭す母親。 ビートたけしさんが宿泊していたホテルの部屋に宮沢りえが「ママに言われてきた」とやってきて、傷つけまいと「部屋に帰って寝なさい」とたけしがそれを追い返したという話がありますが、この宮沢光子さんのエッセイを読むと、噂ではないのではと気の毒に思います。
中村勘三郎(当時:中村勘九郎)
また、ビートたけしさんの次に宮沢光子さんがターゲットに選んだのが、歌舞伎俳優の中村勘三郎さん(当時は勘九郞)です。宮沢りえさんは1994年に中村勘三郎さんと京都のホテルで不倫密会の上、自殺未遂騒動を起こします。またしても世間を騒がせたが、しかしこの中村勘九郞との交際も宮沢光子さん公認。
宮沢りえの毒母 宮沢光子の行動は願望
宮沢光子さんは、業界の大物に目をつけ、話題づくりのために宮沢りえさんと交際させている。当時のマスコミは、こんなふうにりえのスキャンダルを報じていた。すべては、「りえママの戦略なのだ」と。 だが、前述のセックスを勧めるエッセイを読めばわかるように、単なる話題づくりというには過激すぎる。むしろ、話題づくりよりも、娘に自分の願望を託していたようにも思えるのが毒母行動が恐ろしい。
実際、宮沢りえさんの場合は自殺未遂騒動のころにハーフのモデルと無断交際をしており、それを知った宮沢光子さんは、宮沢りえさんを「烈火のごとく叱り飛ばし、平手打ち」したという話もあります。(出典:小学館「女性セブン」1995年10月5日号)。
宮沢りえさんが選んだ相手との恋愛は決して許さず、たとえ不倫であっても自分の選んだ男性との交際にこだわった毒母。自分の欲望を娘に託した毒母的行動によって引き起こされたのではないでしょうか。宮沢りえさんは長く摂食障害に苦しんだ時期もあります。それも母子関係が原因だったと見られている。1996年、親子ともにアメリカ・サンディエゴに移住。その後、りえママは、8年ほど単身でフランスで暮らし、2006年に再び同居しています。
宮沢りえの毒母 宮沢光子への反発で妊娠し結婚するも
宮沢りえさんは2009年にハワイ在住の40代元プロサーファーで実業家の中津ひろゆきさんという方と結婚して、女児を産んでいます。結婚にはりえママは猛反対したそうですが、妊娠しているので仕方がなく認めたそうです。
宮沢りえさんは2009年2月に妊娠6か月を発表。4月に入って婚姻届を提出、同月6日に東京都内で挙式しました。5月20日に長女を出産しています」 しかし、2012年になると離婚協議中であることが明らかになり、正式に離婚を発表したのは、実に4年後の2016年3月でした。離婚原因は、夫の拠点がハワイなので、日本を拠点とする宮沢りえさんとすれ違いが起きたと言われていますが、夫が宮沢りえさんをプロデュースするという話を聞いて宮沢光子さんが大反対したという話もあります。
宮沢りえの母親 宮沢光子の壮絶な最期・死因は?
宮沢光子さんは2014年9月23日、65歳で死去されました。宮沢りえさんが41歳の時でした。 その時、宮沢りえさんは舞台の公演中でしたが、舞台に穴をあけたりはしないまま宮沢光子さんの最期もしっかりと看取ったそうです。65歳でまだまだこれからだという年齢での死因は肝腫瘍でした。
肝腫瘍の診断を受けてから病院へ行きたくないという母親の意向で自宅療養中だった。通夜、葬儀は近親者で行った。 余命が分かった時に、無理な延命措置は行なわずに過ごすと決め、自宅で療養していました。自室から見える桜を見て「来年もこの桜を見たい」と話していた宮沢光子さん。肝腫瘍との戦いは、とても壮絶なものだったようです。「治療をしないと決めたときに私は満足だった」という宮沢りえさんの言葉から想像ができます。
2014年9月24日夜、所属事務所を通じてマスコミ各社に署名入りのFAXを送付した宮沢りえさんは「最期に、生きるということの美しさと、凄まじさと、その価値を教えてもらいました。そういった全ての宝物を胸に、私は、役者として、母として、女として、惜しみなく生きようと思います」(原文ママ)とコメントを発表した。母親へのリスペクトが感じられるコメントです。
まとめ
芸能界で活躍している宮沢りえさんを語る上で、公私ともに影響力のあった母親の宮沢光子さんは、その剛腕ぶりから宮沢りえさんと共に有名になった女性。
自由奔放な母親に翻弄されながらも真っ直ぐに育った宮沢りえさんは、その母親の生涯の幕が降りたと共に彼女主導の新たな人生が始まったのではないかと思います。
現在の宮沢りえさんは森田剛さんと再婚されて幸せな家庭を築いているようです。これからも宮沢りえさんのご活躍を楽しみにしています。
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